判官贔屓

心が叫びたがっていたため生まれました →@mammymummy

前に進めたルルーシュと、どこにも行けないスザクへ 【復活のルルーシュ感想】

 

 


復活に対して思ったことは主に3つ。


1.ジルクスタンの思惑を中心に据えた二時間程度の映画として、「ノリと音楽性で進む戦闘に、少ない描写ですぐに魅力的とわかるキャラ達をどんどん絡めていく劇」っていう、私が好きなギアスだったじゃんという純粋な楽しさが、ひとつめ。

飛翔するランスロットに絶叫するあいつらこいつら。テンポも良くて起承転結も軸もしっかりしていて、面白い映画だったと思う。ジルクスタンの新キャラもみんな好きで、あの人工的な超平和の中に取り残されてしまった、飢えと乾きの戦いの国というコンセプトもすごく良かった。


2.ふたつめは、忸怩たる思いを抱いてきたルルーシュの復活の顛末への静かな納得と祝福。


3.スザクに与えられてほしかった救いが、遂になかったことへの哀しさ。


この3つはかなり異なる感情だから、感想も評価もかなり書きづらかった。


復活、好きですか嫌いですかって聞かれたら好きでしたと答える。面白かったかつまんなかったかと聞かれたら、面白かった。でも、「私の中で、ギアスって作品は、いま終わったかもな」っていう、見限りっていうと言葉が悪すぎるけど、卒業というには冷えすぎてる気持ちが私の復活に対する所感。


復活は色々なキャラをちゃんとちょこちょこ出してくれて、細かく好きだったところはたくさんあるけど、割愛して、前の記事と対応するような形で、ルルーシュが何を得られて、スザクが何を得られなかったかについて主眼にとりあえず書いた。

 

 

制作に怒ったり批判するために娯楽作品を観ようと思うことは誰もしないし、したくない。復活のルルーシュを観に行ったのは九割九分は見届けなきゃっていう義務感だったけど、行くからには楽しもうと思って一年くらいかけて心の準備をした。

復活が決まった以上、所与の条件として考えねばと思っていたこと【=つまり、それが与えられた時に驚かない、不公平と嘆かないと決めていたこと】は、

「①ルルーシュが復活すること」、

「②それを周りは受け入れて、祝福すらするだろう」

ということだった。

また君たちに助けられた、も、君がいない世界は思ったより孤独云々も、スザクとナナリーの救出のはずがいつの間にか目的を変えてる一行も、次々とルルーシュに謝罪する人物たちも、ルルーシュの為に弁解するC.C.も、ルルーシュがありたいようにあるため、彼を押し上げてくれる。

愛されて赦されて応援される主人公像を所与の条件と考えること。これが私が、そうしないととてもじゃないけど耐えられないと思って、自分にかけていた保険だった。

 


「意図せず生きてしまったルルーシュがC.C.との約束を果たすためだけに世界の片隅で生きる」というのは、予想していた色んな可能性の中で個人的に最も望んでいたシナリオだった。こういうと烏滸がましいけど、一番許せると思っていたシナリオ……なぜならC.C.は公正なジャッジたるべきキャラでも聖人でもなく、ただルルーシュの傍らにいる共犯者で、これからいくらでも心情に容易に変化が訪れ得るキャラクターだからだ。

そもそも、R2終了時の牛車の男がルルーシュなのではないかという生存説も、ルルーシュファンの拠り所にと物語が残した救済として、私は目くじらを立てていなかった。それが公式として一本化するのはまた全く別の話だからこんな複雑な気持ちだったわけだけど、C.C.の予想外に厚い献身と執着と情、何もできない抜け殻のルルーシュの描写は、私を更に肯定的にさせた。C.C.が自分の幸せのために「私は我儘な女なんだ」と言って頑張るなら、その我儘の先を喜んで見送ろう。C.C.があんな風に笑うならば。

メタ的なことを言えば、爆発的人気のあったC.C.を、この賛否両論な復活の『口実』にするのは非常に戦略的だと思った。


復活した直後から怒涛のように畳み掛けてくるルルーシュ劇場は、「ルルーシュは利に聡く自己中心的で、また身内と敵では用いる道徳に雲泥の差があり、自分で選択することができ、周りをそれに従わせる人物である」という私の解釈に合うような台詞や描写のオンパレードで、「今までの公式の美化イベントは一体なんだったのだ!!全てを燃やし尽くすのに、情も捨てきれないただの男のままじゃん、よかった!」と思わずにはいられなかった。ルルーシュは自分勝手で自己中心的で、だからこそ願望を叶える力があって、主人公足り得るんだ!!っていう、私なりのルルーシュというキャラに対する納得が、ここにきてちゃんと肯定されたように思った。


私が問うていたルルーシュの覚悟に関しては、「ルルーシュは死ぬつもりだった」、と、何も言わない彼に代わって彼女がさっと言ってあげただけで、更にCの世界のカラクリについては深掘りするわけでもない。落とし所としては些かあっけなさすぎた。

兎にも角にも「復活は所与の条件」であり、その顛末に関してどうこう突っ込んでもしょうがない作品であって、「復活して、どうするのか」であったのだなと感じた。

彼の落とし前は「世界と関わらないこと」であり、それはC.C.と二人でひっそりと世界の片隅で役割を果たしながら生きていくこと...を意味した。

正直、ゼロの役割を代わらないことに関してはいまだに全く納得できていない。ゼロをやることは象徴という枷の中で世界の奴隷となることで、特権ではない。あんな綺麗な建前ではなくて、ルルーシュというのは存外にロマンの男で、妹を守るというロマンチズムの後には、約束を守るというロマンチズムを選んだという印象だ。

それは、勿論、ルルーシュとC.C.の物語として映画が成り立っているときに、非常に綺麗に感動的にまとまっていると思った。

他の人の選択との整合性や、今までとの齟齬を問いただし始めると途端に泥沼だ。

そういう作品として観ない、ということなんだろう。思うところはたくさんあるし、喚きたいこともある。でもそういうものなんだなとするしかない。

 


私にとってコードギアスは結構複雑なシリーズで、それは、誰もが大好きなルルーシュという主人公を、多くの人と同じように解釈したり好きになったり応援したりするのがものすごく難しいからだ。だから、ファンダムでは肩身の狭い思いもするし、「作品を好きって言えるためには主人公を応援できないといけないだろうか?ルルーシュをどう考えたらいいんだろう」て思い続けてた10年間だった。でも、復活をみて、私の中のルルーシュに対するわだかまりは、一応のアンサーを得られた。私は彼のC.C.との今後の幸せを心から願えている。

「復活はルルーシュの世界へのケジメ」みたいな言葉があって、たぶん公式はそういう意味では使ってなかったんだけど、私としては、この復活という映画は大変ルルーシュへのケジメがつけられる作品だった。R2の、「色々やったけど、彼は死んだからもうぜんぶ水に流すしかない」という彼へのケジメの付け方は10年間試したけど、あまり健康的ではなかった。

でも「色々やった。決着を試みた。そして、これからは傍らの女の子との約束の旅を追求します。それを応援しよう」というケジメの付け方は、すごくすごく不思議だけど、むしろできる。

ルルーシュの「世界と関わらない」は、世界という大仰な言葉よりも、今までの人間関係を後ろに捨て置くような意味合いであれば私は嬉しい。

もうあなたは死という形ですら、みんなの心を縛ることはない。どこかでC.C.との人生を歩んでいることを、時々みんなは思い出すんだろう。でもそれだけだ。みんなが負い目を感じることもない。それに安心する。そしてあなたは前に進めた。だから幸せになってほしい。

物語から卒業したルルーシュに、新しい物語に進んでいったルルーシュに、さよなら、行ってらっしゃいという気持ち。

こう思えたことに結構我ながら驚いたし、復活が私にくれた一番の恩恵だと思う。

 

 

 

今回色々な解釈があると思うから、ルルーシュは今まで十分やったとか、これからも辛いとか、こんなのルルーシュじゃないとか、全く異なる思いで、悲しい人もいるんだと思う。

もし、ひとつ確かに、アニメ版シリーズから復活のせいでひっくり返してしまって、もう盆に返らない覆水があるとしたら、ゼロレクイエムの意味だ思っている。私にとっては、新作がなんと言おうと、ゼロレクイエムのルルーシュとスザクの償いとは、「誰よりも未来を欲しがったルルーシュは死に、誰よりも死にたかったスザクはこれからも仮面の下で生きる」というものだ。断じて、「ルルーシュが世界と関わらないことが償い」ではなかった。それはまた全く別の話だ。最初からルルーシュが牛車の男であればよかった訳がない。

ルルーシュは生きていく。未来が欲しかった人が生きていく。しかも、C.C.という理解者とともに、目的と意味のある旅路を。

 


でも、だからこそ、私には捨てきれない期待があった。

『スザクに救いがあるのではないか?』

スザクに関してこの公式や制作が与えてくれる幸せに期待しなくなって久しいし、どうせないかもしれない。でも、ルルーシュが生き返るというのはルルーシュにとって相当の「許し」なのだから、償いに生きるスザクに何かしらの変化が訪れることは違いないのではないか?

むしろ心配だったのはスザクと罪の意識という一期から続く彼の性格を、曖昧にハッピーにされるのではないかということだった。彼がそうした葛藤や今までの一貫性から発展するなら、きちんと物語で説得してほしい。でも、もししてくれるなら、こんなに嬉しいことはないのではないか?

 


けれどもそうはならなかった。スザクの物語はどこにも行かなかった。彼は囚われたまま進まなかった。そもそも、復活はあまりにもスザクの話ではなかった。

 


観劇前、私はスザクが幸せになれることだけをお祈りしようと思っていた。でも、観終わって思ったのは…もう彼は、幸せになんかなれないだろうということ。彼に、幸せになる気がないということ。他人が前に進むことばっかり笑って手伝って、自らの幸せには頓着がない。なのに、彼はまだ、裏切られたと思ったら怒るし、懸命に諦観を身につけ続けなければ擦り切れてしまうような、ただの人間のままだ。それが何より辛い。もし彼が、全くの聖人になってしまっていて、何をされようと気にしないなら、寂しいけど、こんなにも心は痛まないかもしれない。でも彼はそうじゃない。なけなしの枢木スザクという個を仮面の下に持っていて、傷つくたびに世界への期待値を下げて、自分はそのくらいの存在だと、次の瞬間には切り替えてる。その連続が辛い。

 

 

 

「スザクが強すぎて安心した ひとりでもやってけそう」というような感想を見かけて、あまりのリアルさにもはやグロテスクですらあった。死にそうなのに、弱さを見せるのは悪だと思ってるから、必死に感情を隠していたら、周りから見たら誰よりも「あいつは気にしない奴だから」になっていること。

 


上官に撃たれても恨み言ひとつないまま、穴の空いた体でランスロットに乗って、人の命を救えることを喜んでいた一期の頃。

戦闘用ですらないナイトメアで迎撃にでるスザクや、拷問上がりの状態で僕を使ってくれと有無を言わせず戦場に出るスザクは、完全に一期のそれと重なった。

自分の心身の健康を完全に度外視して、他人の他人の大切なもののために命を削るスザクは、これまでの全てを経て、どこからどこに進めたんだろう。

 


自分で何かを選ぶたびに失ってきた人生で、自分の倫理も意思も自分のことも好きになれずに、ブリタニアの正義を是として生きることにした。その次に与えられた倫理のコンパスがゼロレクイエムだっただけなのではないかという懸念。道徳の指針を外注し巨大な正義に支えられていなければ生きていけない。彼の守る明日に彼は入っていなくて、生きることに希望を抱いていない。世界は彼に選ぶ事を許さず、彼も自分の選択を信じられない。我ながら悲観的すぎると思っていたこの考えは、皮肉にも肯定されたような気がした。彼は、結局父殺しのあの日から全く変わっちゃいない。

もしかしたら、あの頃はまだ、彼は「死にたい」という、自分から出た願いを持つ事を許されていたんじゃないかとすら思う。彼が明日を生きるのは、その「死にたい」すらお前の我儘だよと世界から否定された結果でしかないような。私はそんな悲劇的なスザクの顛末を、「生きたいと思えるようになった」だなんて絶対に表現したくない。

 


さすがにスザクかわいそう、という感想が多くなるであろうことは観劇後にも感じていて、それに愚かにも安心すら覚えてしまうくらいには、スザクはずっと正当に扱われてこなかった。ずっと彼はひとり極端にかわいそうだった。彼が孤独でなかったのはほんの一瞬の話で、孤独の傷が癒える前、可能性の段階で無慈悲に終わってしまったのだし、物語の中でも外でも彼に対する異常なくらいの風当たりの強さのトラウマは、いつまでたっても癒えない。

 


スザクに、拘泥させておいて与えず、奪っておいて気にしてないことにさせるひとを何人も見てきた。そうやってスザクを誰かへの愛を示すために使い倒してきた。

今回も、「君がいないと孤独」と言わせた上でルルーシュを去らせ、「ルルーシュの方がゼロにふさわしい」と言わせた上で、同じように思っている人に囲まれながら、ゼロをやらせ続ける。あまりにも酷じゃないのか。

 


それでも明日が欲しい、というスザクの台詞にはずっと違和感があった。その明日に彼が何を求めているのかわからなかった。

でも、何も求めてないんだ。ただ明日を保全する装置になれればいいと思っている。生きろというギアスは願いではなく呪いのまま、人並みの幸せなど捨ててもらうというあの呪いの言葉を一部も違えることなく。

それでもなお、これは『ルルーシュのつくった』平和だと、自分の犠牲を勘定にすら入れず。冒頭のセリフは、「友達が命すら落としたのだから」と自分に言い聞かせて、自分に鞭打つ理由を探し続けているようだった。


それでも、彼が、怪我した猫を拾ってあげるスザクのままであることが、私は悲しくて仕方なかった。亡くしたユフィの思い出の中に生きていくのがスザクだと、あのEDの絵に叩きつけられたような気がした。あなたも他のみんなみたいに明日に生きればいいのに。新しい関係性を探して、悲しみを抱えながらも笑顔で生きてくれればいいのに。誰も責められないのに。

でもそうじゃない。スザクに与えられたのは、仮面の下で、薄暗い蝋燭の光の中で、猫二匹と、ぽつんと独りきり。誰かといる ということが、せめてもの少しの救いになるであろうときに、ひとりだけ誰とも一緒にいない。


予想していたナナリーとの絡みもあまりにもなく、ただひたすらに孤高。

ルルーシュとの会話も思ったよりさっぱりしていて、見送りの言葉もなく、締めくくりのシーンもない。立ち位置としては戦闘の花形、カレンのそれに限りなく近付いていたと思う。


あんな人生なのに、迷い猫一匹見捨てられない。あんな人生なのに、扇さんの結婚式の事を思い出すだけで、自然にあの頃の優しい声で嬉しそうに話す。「君が生きていて良かった」と言って親友の次なる生を祝福する。人の幸せのために自分の全てを投げ打つ。感情も表情さえも。アンパンマンみたい。

スザクに、「君が生きていてよかった」以外のなにが言えただろう?命を落とすかもわからない拷問の後朦朧とした中で、淡々と目も合わせずに作戦の説明をするルルーシュを、衝動で殴るまでが精一杯で、優しい彼に、友達思いの彼に、それ以上の恨みの言葉の一つでも吐けるものか。怒ってなんかいないよ、生きててくれていいんだよ。この言葉は、スザクが、スザクこそが何回だってかけられたかった言葉なのに。

それを彼が納得してるなんていう風な免罪符にすることなんてできるわけがない。


だからもう、いつか幸せになれますように、なんて思えない。いつか救われますようになんて思えない。スザクへの哀しい気持ちはついぞ何か別のものに昇華されることはなかった。物語はそれを与えなかった。

だから私が抱くのはスザクと同じ諦観だ。

 


登場人物たちに対して、私は好きだったけど死んでしまったあの人やあの人を折々に思い出してとか、言及してとか、悲しくなってとか怒ってとか、そう思うのは勝手なわがままだった。死んでしまったひとたちがただの綺麗な思い出になって、生きている人への気遣いが優先されていくのは妙にリアルだった。因果応報は求めないし、キャラに聖人であってくれなどとは思わない。けれども義を謳う以上、何かしらの作品内の倫理の天秤があるのだろうと、勝手にそんな綺麗な整合性を期待するのも勝手だった。

だってみんないま幸せだから。みんないま幸せで、平和だから、なんでわざわざ過去に拘泥することがある?故人のために怒ることがある?ごめんね、ありがとうルルーシュ、と生き返った彼に今がチャンスとばかりに次々にそう言ってケジメをつけて、どんどん過去を後ろに追いやって、前に進むほうがよっぽどみんなの、生き残った人たちの効用が高まるんだ。


人は見たいものを見るし、私もその例外ではないと思う。でも、私は枢木スザクの苦しむところが好きなのでは断じてない。幸せを手に入れられない彼を好きになったのではない。彼が好きだから幸せを手に入れて欲しかった。

スザクは幸せになるのがものすごく難しい人だけど、それでも全身全霊で救おうとしてくれた人に応えられる子だった。とことん自罰的で、贖罪に死を選ぶ彼だから勿論好きになった。でも、そんな「どん詰まりの彼でも」、「救われ得る物語」にこそ私は心を動かされた。彼のような人間だからこそ、ハッピーエンドがあって欲しかった。私はこの悲しさがいつか成仏して欲しかった。

私はスザクとユフィの物語に胸を打たれた人間だけど、それでも、それでも彼にナナリーとの明日があってもほしいと。彼の誠実なところが何より好きだけど、少し自分に甘くなったっていいんじゃないかと。そう思っていた。

ルルーシュブリタニアを壊すと言う夢を叶えたように、C.C.と共に歩めるようになったように、ナナリーという最も大切な人を生き残らせたように、スザクにも何かを与えて欲しかった。

でもそれを観ることはできなかった。


それが結論。

10年越しの決着、ありがとう。


私が欲しかったものは遂に得られなかったけど、いい区切りになったと思います。


スザクがどこにも行けないように、たぶん私のこのやるせなさもどこにも行けない。

ルルーシュを見送ったようにはスザクを見送れない。彼はあのままで、そしていつか死ぬんだろう。それがせめて苦しみの少ないものでありますように。