判官贔屓

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スザクに救いはあるのか、ルルーシュに覚悟はあったのか:新作ギアスへの疑問と願い

コードギアス10周年、並びに同登場人物たちによる総集編、続編の決定おめでとうございます。

あの最終回をびっくりしながら板の間で一人観ていたのが8年も前の事とは。もう社会人だよ。凄いよ。人生の節目節目にこの作品と向き合ってきたので、感慨深いものを感じます。

この作品は私の人生の中で最も愛しているものの一つであり、登場人物たちへの愛着や敬愛は10周年経った今も全く衰えていません。(それどころか、最早ずっと一緒に育ってきた価値観のようなもの、私が大事な瞬間に使う物差し、そして思い出そのものといった側面は、日に日に強くなっているように思います。)これほど好きになるに値する作品です。だからこそ、何度も考察し、批判してきました。

 

ルルーシュの復活、というサブタイトルと、「ゼロレクイエム後における、ルルーシュ彼自身の物語である」という説明。

これを聞いた/読んだ時の私の瞬間の反応は、「は?」でした。ありえない、台無しだ、私が一番起こってほしくない事が起こってしまった……

 

「インターネットでは賛否両論」

頷ける話です。

二つ理由が挙げられます。

1.コードギアスはあの終わり方で、数ある作品の中で記憶に残る一大作品になったといっても過言ではない。あの終わり方—つまり主人公ルルーシュがスザクに殺されるという結末は、それだけ衝撃的であり、新鮮で、感動的でした。(実際にそれが起こるまでは、「もう死ぬくらいしか幕の引きようがないだろうに」と考えていたにもかかわらずです)。

ライトファン層等を含んで、最も直感的で、最も多くの人が持った困惑は、【死の取り下げは、あの感動を台無しにする】という懸念でしょう。

 

2.それでも、ルルーシュのその後はファンに投げられていた。老若男女に稀に見る人気を誇った主人公だったという理由も勿論ありましょうが、「ルルーシュの死は物語上決定的な意味を持つ」事を視聴者が共有したと同時に、それでも視聴者がルルーシュが生きていほしいと思えばそう思っても良い隙間が用意されていました。

彼の死が悲しくて立ち直れない人々や、あらゆる世界軸を想像したい人たちへの抜け穴。否定もでき肯定もできる。

【特に歓迎されてきた、私達の自ずから解釈、翻訳できる余地が奪われた】というのが2つ目の理由です。

 

しかしながらこの8年間解釈が様々になされてきて、もう公式から統一してもいいよね笑というのはその通りでございます。わかります。

その上で上の二つをさておき、私が一番感じたのは

 

Q.なんでルルーシュが生き返っていいんだ?

 

という疑問です。

 

二つ、恐らく宗教戦争ばりに議論の余地のある前提がこの疑問の基である事は理解しています。(この前提は私が原作描写から論理的に導き得た解釈でしかなく、勿論頻繁に否定されることは認識しています)

①ユフィ殺害は、誰にも止められなかった不幸な事故ではなく、スザクの怒りはある程度妥当。

ルルーシュの死は独善的であり、より望ましい方法はあったはず。

 

いろいろ考えた結果

A.コード継承は一度死んでからでしかわからなかった。

というのが最も妥当な妥協点な気がしますが、じゃあなんでゼロの役目スザクに丸投げ?!と思いますし、単にお茶を濁されただけ感は拭えません。「生き返るかもしれない」とルルーシュが期待していた可能性すらもう台無しです。

(ていうか、ナナリーがうわー!って泣いてる時に「あれ?俺生きてるわ…」ってどういう絵面なんだろう笑笑 それから先の死んだふりとか埋葬とか考えると結構面白い。)

 

それはさておき。

スザクが受けた絶望に対して、彼のありえたかも知れない人並みの幸せや未来に対して、彼のその後の悲しい変化に対して、ルルーシュの死という「償い」はこれらにとりどれ程の埋合せだったのでしょうか。

スザクの最愛の人を死に追いやりながら、故に死を望む彼に自らの最愛の妹を託し自分として生き延びさせ、そして自分は復活?ルルーシュは、死んだからこそ私の中で折り合いがつき、多くのファンから熱狂的に愛されることも理解でき、彼という人柄と選択を肯定的に受け入れていたが、これで復活してしまっては…………巫山戯るなとしか言いようが無い。

勿論彼の責任の帰着するところはスザクに関してだけではありませんが、主眼ではないのでこの記事では触れません。

 

あの最終回、私はルルーシュの死に泣いたし、スザクの生に泣いた。

ルルーシュの死が、彼が奪った命を愛する者にとってすら悲しみたり得たのは、3つ理由があります。

 

1.彼の生に対する執着を知っていて、それを終わらせる決意をした覚悟に感動した。

殺戮に手を出してまで明日を求めたルルーシュが、罰として死を選ぶことの意義は言うまでもない。

 

2.彼も後悔があり、懺悔がある優しい人間であることが受け止められた。

彼がユフィの殺害を後悔しているのは真実だった。彼は自分の起こした奇跡という利益と、悲劇という不利益を天秤にかけて尚、彼自身として悲劇を重くとり、責任をとる事にしたのだと解釈した。「あれは過去だ」と一度口にしたあの言葉を、行動によって償いたいのだと。

そう感じた時、彼の死はただ悲しむべき死であった。復讐めいた爽快感は微塵もなかった。

[そう思う時、「私が彼にどうしてもユフィの事を口にして、謝ってほしいのは、勿論私がユフィが好きだったからだが、また同時に、彼がそうするのを見て、彼を許したいからだ」という事に気付く。彼を許して心から好きでいたいわけである。何も、主人公を見て、四六時中忸怩たる思いをもつのは私の趣味ではない。]

だからこそ、「なんでじゃああんなことをしてしまったのか、こんなことになってしまったのか」と一層やるせなく、最早どうしようもなくなってしまった状況への悔し涙ですらあったのかもしれない。

 

3.最期には美しい死を望む以上には打算的ではなかったと安心した。

あの場面に、穿った疑惑の入り込む余地は、正直なかった。確かに、ルルーシュは、最愛の妹の側で、劇場的に死にたかった。カレンなど、近しい人には理解されたかった。ナナリーの意志を無視したルルーシュの死は独善的だった。それでも尚、「あぁ、やはり彼はとても人間的だった」と思う以上の打算はなかった—死を偽装したがっている、などという可能性は微塵も感じられなかった。

最期のスザクへの呪い、ナナリーへの祈りは、「それでも貴方は何か考えているに違いない」などと言う感動への障害物を悉く失くす力があった。あの場面は本物だった。

 

この3つはもちろん、私があの時泣いた理由であが、恐らくスザクがあの時泣いた理由でもあるでしょう。

 

しかし、今、その大前提である、ルルーシュの覚悟とは、懺悔とは、一体どこにいってしまうのでしょうか?

彼の死は、生き返りを想定した茶番でしか無く、スザクの生は、その替え玉という陳腐な値札が追加されてしまった。

罰を受けたのは最初からスザクだけだったのか。

荷台に乗った時点でルルーシュは自由です。死ですらどのくらい苦しかったのかよくわからない。社会的死が、それまで彼の人に与えてきた死に比べて、一体どれくらい価値のある償いだろうか。

 

スザクに救いはあるのか??

ルルーシュに覚悟はあったのか??

 

この疑問が簡単に解決されないのは、【ルルーシュは救われる。スザクは救われない。】といういつも苦味しかなかった構図を最悪の形で再構築された様に思えるからです。

 

よくスザクに対する批判でなされるのは、「自殺願望があるなら勝手にやれ」「偽善的」の二つですが、そもそも一介の軍においてですら特出していたであろう彼の身体的才能を鑑みても、「死ぬ→社会への不利益」という方程式が成立していたとしてもおかしくはない。依って、「才能を活かしてから→死ぬ」が彼の折衷案だったのだ。また、「すでに幼少で間接的に殺してしまった分、人を助けたい」という救済願望、赦しを求める感情は、偽善ではない。そもそも、彼は一度も善ないし益を主張したことはない。彼のしたのは、「社会で定義されている善を受け入れ、それを実現すること」である。作品の構成上、常にルルーシュの善に彼が対抗してくる構図だったのは殊更否定しないが、彼の従う善は彼に益のある善ではなく、社会が彼にそう押し付けた善でしかない。

彼とルルーシュこ決定的な違いは階級であり、選択肢の幅であり、行動の緊急性・必要性だ。スザクの行動は常に比較的に、ある程度強制の、奴隷的なものであることをわかっておかなければならない。

スザクの人生は最初から最後まで結局不幸の方が圧倒的に多い。不自由なかったのは年少時代くらい、その時ですらスザクには元々兄弟も母親もこれといった友人もいない。また、あの頃の横暴で爛漫な性格と今の性格を比べると、いっそのことより一層痛々しさが増す。

物語が始まるまでのスザクの人生は、少なくとも妹と友人と物質的援助に恵まれたルルーシュのそれを激しく上回って酷い。

幼くして友人(しかも限りなく短期。私は昔読んだ【それまで親友のいなかった為か、またはその後過ごした辛い時期から思い返すことが多かった為か、誇大に美化された友人関係】というスザク-ルルーシュの関係性への指摘が忘れられない。)の為に父親を殺し、それにより自国がよりあっさりと侵略され、国民が死に、親戚からは勘当され、軍に入り、その過程で大事な人を失い、差別的待遇を受け続けている。トラウマから彼の人格は驚くほど他者中心、自傷的になる。

その彼を少しでも変えたのはユフィだったが、最悪の結末を迎えたために、彼の倫理は歪んだ。(与えられる善を実行すれば救済される→与えられる権力構造を利用すれば報復できる)

彼が守りたかった道徳を気にしなくなり、力に固執するようになったのはやるせない。その間ずっと生きろギアスが効いていたのも最悪に拍車をかける(勿論死んでほしくはない。でも彼にいつかですら何かしらの自由があったのか?という疑問は重い)。その後のいかなるスザクの行いの矛盾が指摘されようとも、ならばスザクはユフィの死の後如何様に救われ得たのか、それが不可能なら原因は誰、何だという事になる。フレイヤの発射もその一つだ。

 

最終回の辛いのは、これからの未来にスザクという人格が幸せになる要素が見受けられないからだ。Cの世界なるものがあることがわかったのに、ユフィの元に行けないこと。ユフィを殺したゼロという男に扮するということ。最早彼自身ではなく、憎んでいた劇場型の犯罪者・ゼロとして生きること。この生の幸せが無い(最早苦しみしか感じられない)中、最悪の場合、不死であると考察できたこと。

今回、スザクが不死になったのではなく、ルルーシュが不死になったパターンが明確になった点では最早救いだったかもしれない。スザクにあのまま生きろギアスが効いている範囲内で彼は不死に近いが、いつかは終わる罰だ。

 

もし私がスザクに救いや許しを求めるならば、それがルルーシュにも求められてきたのであり、だから生き返る、そして喜ばれるのは当然のことでしょう。

しかし、ルルーシュが商業的に贔屓され得るから救われて、スザクは不人気だから救われなくて、そんなのは本当に願い下げだし、本気で観ていて辛いのを製作者にはわかってほしい。亡国ですら毎回精神をやられていた。もし数年後の時間軸でやるなら、二人共が償いをできて、二人共が救われてほしい。

 

何にせよ、物語を実際に観るまでの批判も焦燥も無駄でしか無いことは十分わかっています笑

趣味という無駄な贅沢の内でも考察や予想は特

に無駄の権化なのですが、それでも10年間の鬱憤を晴らすためにやってしまいました。

この8年間は、スザク好きにとっては別に「いろいろ好きにでにた8年間」ではなかった。

だから多くのファンの方々がやっていらっしゃるように、「公式、そろそろ好きにしていいよ!」と送り出すことが難しい。

どんなファンダムに行っても、どんな交流をしても、どんな動画を見ても、考察を見ても、逃げようもなく誰かにスザクを非難されて批判されて否定されて、そして公式からもしばしば彼のユフィへの想いを踏みにじられるようなこともされて、あぁ!!!やりきれねぇ!!と常に思っていた8年でした。

ならば、私にとって公式に望むのはもうこの気持ちの埋葬です。もう成仏させてくれ、と思います。

彼を幸せにしてほしい。

 

 

お疲れ様でした。