呪いの子感想①:前7作の懐疑への答え
Twitterでスコーピウスが可愛い!って話を読んで、勢いで呪いの子読んだ
※邦訳はまだ読んでないので日本語の台詞はわかってないでネタバレしてます
※always,今回はどう訳されたのか若干気になっている!!!
呪いの子、scobusに湧いている層を置いてみるとネット界隈では「なかったことにしたい」との意見が結構あるみたいですね?!
私はかわいいのと、まさか〜とびっくりなのとでもう只管感謝してましたが🙏🙏🙏
ハリーがお父さんやっていて直様泣いた
確かに作者による同人活動、というのは言い得て妙..(いいか悪いかは置いといて)
結構的を射ている………確かに同人であるよね?!みたいなシーンの連続…
キャラクターの台詞を取っても、前7部作より大袈裟に思えて、過剰だったり。
デレるドラコ、キレるハリー、ロンハーの夫婦漫才なんかに対しては結構そう感じました。
行動にある付加価値が執拗に粘着されていて、他の解釈を排除している感じもした。
彼はどう行動するんだろう?あ、そうするのか!とあらたな性格を発見しながら読む作品というより、彼にはこう行動して欲しかったんだよな〜、あれ?してる……みたいな、性格の確認というか…。大人を描くってそういうことなのかもね。
演劇の為に描くっていうのも、「大げさ」の理由なのですかね。演技も脚本も、演劇って鮮やかな演出をする傾向があると聞くし。
しかし、私は大きな成功があったと思った。JKRが、7部作で取りこぼした弱点を強烈に補おうとしていた。
私は、JKRが特定のテーマを据えて、それに積極的に応えようとしたからこそ—原作より遥かに短い限られた尺に、明確にテーマを持たせたために—物語としての繊細さや質であったり、前作との微妙な整合は犠牲になっても良かったのかなと思いました。
Q.前7作への懐疑
子供心にはただ冒険譚としか感じていなかった作品も、大人になればその社会性に気付く。
JKRはTwitterを始め他のメディアにも露出が多く、物語を社会問題への問いかけに用いることに躊躇がないし、その類の作品の中では仕掛けやアプローチがかなり周到かつ大胆だ。
ハーマイオニーは黒人になり得る、ダンブルドアはゲイだった、階級社会の否定………ハリーポッターとJKRがその表現をもって挑み、時によって大きく貢献した社会運動は多い。
だからこそ作品にはより高次元の、要求の高い批判が寄せられることも多い。
(呪いの子に対して、「スコーピウスとアルバスをゲイにするべきだった」と主張しているのは何も西洋腐女子だけではない。ゲイ本人も、最終章は所詮JKのheteronormativityだと批判している。—というような。)
その中でも、私が今まである程度強く納得した批判が4つあって、
1.どんな正当で大きな理由があろうとも、子供を虐待環境へ放ってはならないこと
2.スリザリンに対する扱いは逆差別か、又は彼らの排他的性格を助長していること
3.ロンハリハーの黄金トリオの結婚相手は、JKRのエゴだということ
4.反則チートの存在:e.g.タイムターナー/予言
この4つが、大きく作品のテーマとして扱われていた。
4つめは社会性とか関係ないけど。長いけど読んでください。
簡単に言えば、人物または物が、物語の奴隷となっていたところを解放しようとしていたという感じかもしれない。
1.虐待
子供向け作品の主人公は得てして不幸だ。寺山修司…"勝負の世界で、何よりも大きな武器は不幸だ"…(『書を捨てよ、まちに出よう』)。
しかしメタ的視点で考えてハリーを主人公たらしめる為に必要な不幸だったとしても、謙虚な人格に育てたかったというダンブルドアの言説を取ったとしても、「虐待環境へ幼児を置き去り、更にそのまま全くコンタクトを取らない」というのは、正当化できない不正義だ。
ダンブルドアはやはり聖人ではない、という議論を展開したいわけではない。
虐待が、【前作では解決を迎えたとは思えず、かつ十分に問題視すらされていなかった】ことを指摘したいのだ。
「虐待はハリーにとって成長過程で既に乗り越えられた壁だったので触れなかった」という解答も、アリだったとは思う。ハリーにとってホグワーツが家になった。無二の親友や親代りも沢山いる。他の問題に比べたら瑣末になった。
しかし呪いの子で更に追加された虐待エピソードの意図を考えれば、JKRはそのようにしてこの問いから逃げようとはしていない。
むしろ、虐待の描写は痛々しさを増したし、前作終盤で若干株を上げたペチュニアは再び大きく株を下げた。
さらに新しく、育児に際して、親がいなかった事、育て親に虐げられた事はハリーにとって大きな関門になったことも描かれた。
ここから、JKRは呪いの子によって、【虐待は疑いようがなく深刻だった。その通りに認める。ハリーはどのようにそれを乗り越えるか?】を意図的に示したと考える。
ダンブルドア-ハリーの擬似親子が抱えた問題に再び焦点を当てる形でこの問題が浮かんできたのも良かった。Thank Dumbledore, By Dumbledoreの言い回しに表れる様に、マーリン同様の神扱いなダンブルドアだが、読者がもつ懐疑は正当だという、JKRからの回答のように思った。
(死の秘宝で駆け足にダンブルドアへの懐疑が描かれたものの、終わり良ければすべて良し感で流されてしまったように思っていた。今回、終わりよければもなにも、ハリーへのダンブルドアの無責任—または過度な介入—の顛末はまだ終わっていない、という事が確認できた。)
ハリーは作中で、「反面教師にする親も、お手本にする親もいなかった」旨の発言をしている。
どの親も多かれ少なかれ問題を抱えているだろうが、ドラコは反面教師にするルシウスがいて、ジニーやロン(そして恐らくハーマイオニーも)にはお手本にする親がいた。
平行世界の時間軸のハリーが子供に対して父権をひけらかし、従えようとしたのは、バーノンダーズリーを無意識の手本にするしかなかったからかもしれない。
家族に欠けていたダンブルドアは、ハリーの模範となることはできなかった。
では、誰が?
特にドラコとの会話、ジニーとの会話で顕著なように、周りの友人が親として振舞っているところをみながらハリーは、虐待から生じた傷を乗り越えていくのだろう。
2.スリザリン
正直言って、読む前にアルバスがスリザリンというネタバレを偶然見たのは残念だった。
言うまでもなく今作の一番わかりやすい特徴だ。主人公がスリザリン。
POTTERMOREで知ったけれど、マーリンはスリザリンだ。スラグホーンのように、好かれるスリザリンもいるし、スネイプやレギュラスの庇護/忠誠心はスリザリンの特徴かもしれない。しかし作中描写は兎角酷い。
ネタであれ、本気であれ、ダンブルドアやマクゴナガルのスリザリンの扱いも相当だ。
ダンブルドアをゲイにしたり、キングズリーが黒人魔法省大臣になったり、ハーマイオニーが女性魔法省大臣になったり、ハリーの初恋はアジア人だったり、JKRの多様性重視、物語内の理想的社会の構築は顕著だ。言うまでもない。
よって、アルバスというスリザリン主人公を描くというのは、殊更驚愕ではない。
いかにポッター家からスリザリンが出るのがありえなさそうでも、JKRはそういう他の目的を勘定に入れていそうだし。
グリフィンドールの問題点は、不死鳥から顕著に表されていたと思うが、スリザリンの「内輪に贔屓目で優しい」という美点(?)は、今作によって、生死関わる劇的なレベルでなく、普通に、可愛らしく描かれたと思って、凄く満足した。
3.黄金トリオ
JKR自身で「ハーマイオニーとロンは一緒にするべきじゃなかったかも」と発言するくらいだったから、この二人の関係性の懐疑は読者からだけでなくJKR本人からもうまれていたのだろう。
今回ロンハーが時間軸によって別れていたり、別れていてもくっつきそうになったりくっついたりするのは、
①二人は微妙な均衡で結ばれた仲だった
②それでも、二人でいるのが最適解だし、一番自然だよね
というJKRの思考実験の様だった。
ハリーとジニーについては、「身寄りのないハリーを、本当のウィーズリーファミリーメンバーにする」という作者のプロット/エゴの一部だ、という考察に私もある程度同意している。またジェームズとリリーを見た目的に踏襲したかったこともあるかもしれない。
ロンとハーマイオニーの方が、というかもっといえばロンとラベンダーとか、ハーマイオニーとマクラーゲンとかの方が、恋愛としては納得のいく顛末だった。
よく言われるのは、ジニーの人格描写、ジニーへの心理描写が少ないという事だ。ジニーがいい奴、感じのいい子だということはわかるが、それだけ。そんな中で、秘密の部屋の最後で一緒に遊んでくれた事をジニーが振り返った事は素敵だった。短いのに何より説得力があった—死の秘宝の別れ話における告白よりも。
どの時間軸に行ってもハリーとハーマイオニーが結婚することはなかった(ハリーが死んでいる場合もあったわけだが…)。
ハーマイオニーが独身で、学生時代からロンと恋愛沙汰にならなかったにも関わらずハリーがジニーと結婚している事から考えても、作者はその可能性まで提示しようとは思わなかった様だ。
※そうするとアルバスが消えたりと、プロット上都合が悪い事も否めない
前作では言ってもみんなティーンエイジャーだったわけで、あの頃の人間関係のままエピローグに突入したため若干駆け足だったし、死の秘宝で逆に「やっぱりハーマイオニーにはハリーの方が良いのでは…………」との思いを強くした人も多かったと思う。(私もそう)
しかし呪いの子を見るに、ハリーとハーマイオニーはやはり無二の親友だと感じた。尊敬しあって、守りあって、からかいあう兄弟姉妹のような関係性がよく似合う。
スムーズに合いすぎている、にすぎているのかもしれない。また違うところ(行動的なところと、書類仕事が好きなところ等)があっても、それが恋愛の魅力には繋がらない。
JKRは男女の友情を信じている。ハリーとハーマイオニーをくっつけないのは、JKRのエゴだったのかもしれない。夫婦よりも親しい異性の友人はあり得る(ジニーが嫉妬している様に)、という、これもまたJKRの理想の表現だった。
そして私は殊更これを非難したいと思わない。
4.タイムターナーと予言
タイムターナーも予言もチートである。
簡単にplot twist…または魔法界の非論理性への正当なツッコミを増やしてしまう。「何故ヴォルデモートを銃で殺さないのか」より厄介な二つの道具だった。
タイムターナーを不死鳥で全壊させたのはそういう理由もあった筈だ。
ならば何故今回タイムターナーや予言を主軸に置いた物語にしたのだろう?
タイムターナーの概念自体が、JKRが呪いの子を書く姿勢を象徴しているとは言えないだろうか?
もしこうしたらどうなっていた?
もっと多くの人を救えたはずだったのだろうか?
しばしば我々が後悔するように、「もっとうまくやれた」はあり得るのだろうか。
物語を書くというメタ的行為に関してもそうだし、ハリーという登場人物の行いに関しても言える。
ハリーがセドリックについて悩んでいるように、自分に捧げられた多くの犠牲について悩んでいるように、「いまある世界線はベストか」は万国共通の悩みだ。シリウスを殺した時キッチンに駆け込んだJKRもまた、ある種の罪悪感を抱えていたかもしれない。
可能性を行き来し、試した結果呪いの子の結論は、【今の世界に戻し、より良い未来を目指す】こと。ハリーポッターサーガへのJKRの姿勢そのものだろう。こうなってしまった物語はもう変えられない。そしてこれからはその先を考えよう。
予言については、前7作でダンブルドア-ハリーの問答で半ば解決を見ていた。大切なのは予言をどう扱うか、自分の意志でそれを受け入れるのか、どういう選択をするのか?
しかし尚、哲学的に終始した嫌いはあって、「選択が重要なのはわかるが、ならば予言の必要性とは」「予言は絶対なのか」という疑問からは逃げていた様に思う。
予言を上回ることができることが明示されたのは、【こうなることが予想されるであろう現実はある。しかしそれに逆らうことには意義があり、結果も伴える】ということだろう。
結局のところ予言がヴォルデモートを殺したのではなく、ハリーポッターがそうしたのだ。
ところで、なんでスターウォーズといいハリーポッターといい、予言の子っていう概念は現代も西洋フィクションで人気なのでしょうね。
イエスキリストその人から始まって、様式美なんでしょうか。
関係ないけど、ナルニア界のサンタとか、ハリーポッター界のクリスマスとかってなかなか面白いよね。ホリデーはあるんだ、みたいなね。ナルニア界はまんまキリスト教パロディですけど、それでもアスランですからね。
もっと関係ないけどハリーポッターには宗教が全くないのは本当に面白い。そういう論文ありそう。誰か教えてください。
感想②では、アルバススコーピウスの、可愛さとか、ヴォルデモート、マジ?みたいな、普通の話を、短く書きたい(*_*)