判官贔屓

心が叫びたがっていたため生まれました →@mammymummy

進撃が最終話だからハンジさんについて長々と書く:順番とは

進撃 最終話 ネタバレ

どうして研究者としてどちらかと言えば自由人・変人枠だったハンジが、最後には、最も人として譲られぬ線を譲らず、団長として以前に大人としての責任を果たすという役割で退場していったのか とか 考えちゃったんだけど

彼女ほど進撃の物語の中で大きく役割を変えたキャラはいないのではないかと思う程に、初回登場のハンジは最早懐かしい、遠い日の誰かだ。あどけないこどもからスタートして、英雄に終わったアルミンの方が、役割としては一貫性があった。調査兵団の面々と比べても、おそらくハンジは群を抜いて変化があった。


その役割の変化の殆どは、勿論、彼女の人格・人柄の変化ではなかった。その面では変化というよりむしろ、明らかになっていった、という方が正しい。


最初に彼女の巨人狂いの皮の奥が見れたのは、勿論、おそらく多くの読者にも最も印象に残っている、「怖いなぁ」という壁の上の彼女の一言だろうと思う。

普段の空気が一転して、人を殺しかけた直後、ぽつりとただ出た言葉。そう、彼女だって、ずっとずっと恐怖を感じていたのだ、と。

こんな世界で、何かに酔っ払っていなければやっていられない、生きるという事なんて……私が進撃で最も好きなコンセプトの一つだけど……ハンジが酔っ払っていたのは、調査兵団という英雄だけではなく、巨人の謎を解き明かすという酒だった。酔っ払ってはいられなくなった時、ただ不安と恐怖があった。そして彼女は……不安と恐怖に向き合う方を選んだのだ。それが調査兵団だから。「理解する事を、あきらめない」。


最期彼女が死ぬまで彼女の口からたびたび出てくることとなった、サネス拷問からの「こういう役にはたぶん順番がある」というやりとりは、彼女の常識や世界観を強烈に揺さぶった。いつ自分の順番が来るのかという呪いを受けてしまった。その呪いは、ハンジには、妥当に思えた。真実だろう、と。



エルヴィンの生死をめぐっては、リヴァイと意見を異にして、同胞の突然の情じみた選択に、納得がいかないまま団長という重圧を背負わなくてはならなくなった。

エルヴィンの死は、おそらく全ての歯車をこれでもかと狂わせたし、才能としての後釜のアルミンと同様、役割としての後釜のハンジも、延々とエルヴィンなら、エルヴィンならと口走ることになった。読んでいる立場としては、アルミンにしろハンジにしろ、そういう台詞を言うたびに、やるせない気持ちになる。本当にエルヴィンならできるのかすらわからないのに、エルヴィンと自分を比べる。

白夜の、マジで厳密に言っても誰が悪いわけでも無いにもかかわらず、フロックを含めて全員の行き先を変えたというあの構成、あの物語は、本当に脱帽する。

 


「こういう役にはたぶん順番がある」を、ハンジはどう捉えたかといえば、「自分は、中間である」、だと思う。

勿論、順番があるという事は、99%誰もが中間なのだが、ハンジは殊更、エルヴィンから団長の役割を得たその瞬間から、おそらくいつアルミンへとその役割を渡すのか、渡すべきか、ということを考えていたと思われる。


憧れのキース・シャーディスの真相は、ハンジの中で諦めと共に、もう誰かに憧れる世代ではない、という認識を強めただろう。

ハンジは変わる事を迫られていた。


その結果、ハンジの中では、「世代交代」「世代」が回を追う毎に明確になっていった。だれの責任で、だれは責任を負うべきでは無いのか。だから「大人」として振る舞ったし、104期、またガビたちの世代を明確に「こども」として別なものとして扱った。

自分には背負う業があり、そうではない人がいると。

この考えは、よくみると、エルディア〜云々の2000年たらたらの恨みと、真っ向から反対している。


ハンジの思う「中間」としての「順番」は、我々が望んだより遥かに早かったが、ハンジからしたら、最後努めた殿は、しごく当然のことだったのだ。

自分の同期や後輩が殆ど残っていない中で、いつ自分の終わりを迎えるべきか。

ライナーやエレンの流れを汲む、贖罪としての終わりとも違う。ただ、単に、「順番」としての役割。


ハンジはこういう風に、折々で作品の主題と異なるところで、重要な物語を持っていると思う。


エルヴィンが消えて、エルヴィンの代わりをやらなくてはならなくなった。巨人好きなハンジであることができなくなった。でもみんなをまとめるために、エルヴィンの夢はもう使えない。エルヴィンの時代とは課題も全く違う。

ハンジはどういうリーダーをめざしたのだろう。

そんな中で顕著に出てきたのが、「虐殺を肯定する理由があってたまるか」と、最後の最後の線引きを絶対にする、そういうハンジだったのが本当に嬉しい。


何故なのか?


ハンジは、混沌とする中で、『巨人を殺す』『壁の外を知る』『英雄たれ』、そういった今までの指針とは別の強固なものを探したかった。

これで、対マーレとか、対他の国とか、そうなれたら単純だった。

でもハンジは学者だった。ハンジは、この世で知識だけがニュートラルで、他のいかなるスローガンも、いつ正しくなるか間違いになるかわからないのだと知ってしまっていた。

ハンジは、わかりやすい指針に飛びつきたくはなかった。そんな虚構で人を引っ張って、間違った事をして……自分自身を一体いつ転覆されるべき順番に追いやっているかわからない。


ハンジはおそらくリーダーには向いていなかった。人が奮い立つ虚構で人を引っ張らないから

エレンやエルヴィン やフロックのような演説がハンジにできるわけがない。

だが虚構ではなく、何かユニバーサルに、ずっと、順番が来ない、ひっくり返されない、そういう正しいと思えることがあるはずだとずっと祈っていたはずだ。だからハンジは、時に倫理を説こうとした。別に説教としてじゃない。その線引きを気にしなければ、すぐひっくり返されるとわかっていたから。すぐに順番が来てしまうから。

だから、ハンジは虐殺を否定する。

ハンジは混沌たる中でのリーダーにはもしかしたら向いてなかったけど、ハンジが団長でなければ、あの結末にはならなかった。


ハンジはエレンとは違った。アルミンとも違った。二人をこっちだ、その方向じゃだめなんだ、と引っ張らなくてはならなかった。その多くがうまくいかなかったけど、それでも二人に違うとそう言いはなつ彼女がいたことがどれだけ物語にとって重要か。



「虐殺を肯定する理由があってたまるか」というのは、意思を持った否定だ。

科学者に分類される彼女が、「○○は存在しない」ということはない。「○○が存在する事を認めない」「認めたくない」なのだ。

ジャンもハンジも論理主義だから、あのやりとりはどこまでも続く。そして、おそらく、見方によっては遥かにジャンの言い分に分がある。答えはない。だからこそ、どこかで「どちらかの論理は"とらない"」という決断になる。そして目に見えないところで、大勢の人が、よくわからない規模で死んで行くことは、ハンジには絶対に超えたくない一線だった。


こういうのには順番がある。つまり、何が正しいのかなんて誰にも分からない。

その中で、その論理はとらない、と決めることがどれだけ重いか。

よく勘違いされるけれど、道徳が味方しているからとりやすい選択なんて、ない。損得が味方している選択の方が、いつだってはるかにとりやすいに決まっている。


何が正しいのかわからない……その中でも、最低限の正しさがあることをハンジは祈っただろう。だからハンジは、巨人の研究者から、苦しむ団長になったのだ。


最期、アルミン に団長を託した時、ハンジが言ったこと。

「理解することを諦めないのが団長に求められる資質である」

また、壁の外があると決まった時、調査兵団は、巨人を殺すことを目的としているのではなく、あくまで調査をする事、知る事を目的としているのだと、説いた。


ハンジは、だから自分が団長になったと、何度も自分に言い聞かせたと思う。理解する事を諦めないから、エルヴィン は自分を後釜に選んだのだ、そうでなければ、なんなのだ、と。

だからアルミンへの遺言は、彼女への言葉でもあった。



進撃は、色々と哲学的なことも語ったし、政治的なことも語ったし、歴史的なことも語っただろう。

けど、やっぱり、英雄として最初に登場した調査兵団のスピリットも、ハンジ・ゾエのスピリットも、そこには当てはまらない。

理解する事を諦めない、物理的なことも、形而学的なことも、何が正しいのかすらも。そういうスピリットを汲んでいる。

リヴァイと二人で暮らそうか、とひとりごちあと、戻ってきたのは、「諦めなかった」からだ。知る事を。なすべきことがわからなくても、それを知ろうとすることを諦めなかった。


だから、そういう意味で言えば、ハンジの劇的に変わった役割にも、やはりひとつの芯は通っていた。

わけがわからないものを、理解しようとする事を、誰よりも諦めない人。

えてして、最後の最後で倫理を守ろうとするのは、そういう姿勢なのだろうな、と思った金曜日でした。



私はアルレル党の人間でEMA箱推しなんだけど、最終回終わってもーーーハンジさんのことしか考えられなかった。なんでかな?!


進撃が終わって、寂しいです…


「とっととくたばれ糞野郎」鬼滅における人間と鬼、そして情けについて

教祖を好きになった以上「あとはどう死ぬかだ」と腹をくくっていた万世極楽教徒が163話を受けてただの脊髄反射で書いてる かくにんさぎょうよわよわめ

鬼滅大すき 作者は天才 前提終了

 

 

色狂いの父に似て女を食い荒らし、服毒死した母に似て毒を喰らって死んだ。

それだけが童磨の家族の肖像であり家族との繋がり。彼本人がそれを悲劇ともせず、動機ともしない以上、なんの物語にもならなかった過去回想。

なんていうか、あかざさんの一件でちょっと期待というよりは予想しちゃってたなっていうのは、鬼にも情けをかけるのじゃ、みたいなところあったじゃないですか それが今回の童磨さんは死体を笑いながら踏みつけにされるし、童磨さんはなんら同情できる悲劇から鬼になったのではないらしいし、1コマでなんか鬼になってるし、最後までしのぶに罵倒されて終わって、な、なんだろうこれは なんで吾峠はこうしたんだろうって思って  

自転車乗りながら考えて

・「人間性の欠如」が童磨 であり、

鬼滅の刃でたんじろう/作品が敵にかける情け、鬼にも与えられる同情や哀しみは、まさしくその「人間性」に対して向けられていた

ということを思った

結局童磨には感情がなく、感傷がなく、人の心がわからない。だから翻って、童磨にも感情も感傷も与えられることはない、と仮定する。

あかざを友達だと思ってるのと、しのぶに恋したと思ってるの、どっちもたぶんただの道化の言葉遊びでしかない。童磨さんって本当に「最初から人間じゃなかった」のかなと。

視座が鬼。最初から鬼。だから鬼になった劇的なエピソードなんてない。人間の頃のこともきれいに覚えてる。

鬼滅で主人公や正義から一抹の優しさや温かさを鬼が与えられることが多いのを、かわいそうなひとたちへの無差別な優しさと解釈するのはやはり間違いで、あれは彼らの「人間だった時の」「人間性」に対する優しさであって、鬼にかけてる優しさじゃないんだな…

というのが個人的な結論。

でも童磨さんがいなかったら、ぎだゆうは妹を救えなかったし、ぎだゆうたち兄妹の絶望にきづいてあげられる人もこの世にはいなかったのに、
感情がわからないというだけで

それだけで

与えられる情けがないんだーーーー

死体蹴りされるのだとかなしくなっているのが今です

 

えんむにもまるで情けや物語は与えられなかったような

そんな彼の血鬼術は人の心をめためたにすることだったような

人の心へのリスペクト、やはり重要

 

そう、そうなの それを踏まえると、たぶん、あかざがまだ煉獄さんやたんじろうに見当違いで失礼千万なことを元気いっぱいにのたまっていた時はたぶん漫画演出的にも全く情けはかけられてない、たんじろうから怒りをただぶつけられている
ただあかざが人間の時のことを思い出して、人間性を少しだけ取り戻したとき、その少しの人間性に対するだけの少しの道場が、演出とたんじろうから与えられたんだと思うのね

 

なので、やはり作者の道徳の天秤は、鬼の鬼たる部分には情け容赦なく、しかし人だったところへは情けを てことだと思うのね

 

ということは、ということはですよ

 

「人間の時を思い出して、だから今際の際に人間性を少し取り戻せたあかざ」がいるのに、「人間の時のことを鬼になってもぜーーーんぶ覚えたまんまだけど、もともと心がないからそんなの関係ねぇ童磨」を出すって、

はぁ 童磨の人間たる人生 とは!!!

どうまの 認められるべき 人間性はないのか………

あんなに 優しいのに…………(錯覚)(信者です)

 

あんなに 優しいのに………………!!!(錯覚)(万世極楽教徒)

 

周りがバカだ馬鹿だって思って軽蔑してたのに、最後「あーだめなんだ俺は(そこまで特別になれなかった)」で終わるのもなんていうかすごい。しかしそこに特に本人の感傷がない。死に際してすらない。そして、万世極楽教祖が、「地獄に行こうよ」と自らの地獄行きを語るコントラストも、全部良い。

 

「天罰はくだらない だからせめて 悪人は死後地獄に行くって そうでも思わなきゃ 精神の弱い人たちはやってられないでしょ?」

 

地獄、行くんだね…

 

 

 

はい、

恋)

最後の瞬間に童磨も恋という感情を知れた!て読む人もいると思うけど、私は「最後の最後までどうまにはトンチンカンな感情の解釈しかなかった」という描写な気がして(馬鹿な人がかわいそうだと泣く、自分はいいことをしてたのにと怒る、というシーンからまるで変わっていないということ)

いかに童磨には何もわかっていないのか、という。あかざに救いを与えた愛という感情で、童磨は人の気を逆なですることしかできない。

 

あの描写、童磨は最後の最後まで童磨節全開で元気溌剌だし、どちらかというと気分を害したのはしのぶというか…「仲間を信じます」という綺麗な言葉では童磨とのやりとりを締めくくれず、しのぶは軽蔑と怒りで締めくくった。そこをしのぶの重要な側面だと作者が選んだのかなと。しのぶと童磨の関係性においては、やはり、しのぶに「怒り」と「疲れ」を与えたというそこが大事だったのかなと。

普通の作品なら、怒りからの解放、敵に最後に圧倒的に優位に立って、怒りが情けに変わったりもする。怒りは卒業するものだとされる。ので、しのぶさまの怒りや決意が大好きだった一読者として、最後までたおやかに怒る女、しのぶを描いてくれたのは嬉しい。

その身全てを毒としたその殺意を、卒業するものにせず、彼女の一側面として描ききられたことが有難い。(もちろん、その後の家族とのあたたかさ、がすべてなんだけど)  

童磨さん視点では童磨さんなりに立派に感情もってるんよね だからちょっと「うーん自分やっぱズレてるかも〜」って自戒した直後に「でも恋できるもん!」「これが恋ってやつなんでしょ?」て思ったのかもね。

「これって恋かな〜?!」ていう台詞は、むしろ童磨さんには結局友達も作れないし恋もできないという描き方だったという上記のわたしの解釈はふつうに誤読かもしれないんだけれども、童磨が最後に恋して、フラれたという話だったとしたら、そうして死んでいのすけに踏みつけにされて、すっかりあとはしあわせな、家族の物語へスポットライトはうつって、一体全体その恋に、何を私は見出せるでもなく……………。

 

カナヲにしろしのぶにしろいのすけにしろ、徹頭徹尾どうまが勧善懲悪だったのにむしろ結構面食らってしまった…一気に三人もの登場人物の復讐というカタルシスを成功させるのやばない???三人もあたたかな物語が迎えられた のに対して、童磨やばすぎる なにもあたたかみねぇ

 

あかざの愛と、いのすけ、カナヲ、しのぶの家族の祝福 に挟まれて、一切の道化である童磨の最期に送られる言葉が、

 

「とっととくたばれ糞野郎」

「口ほどにもない野郎だぜ」

 

はぁ

 

 

かなしいかなしい

かなしいけどこれが天才吾峠が創造神たる世界の道徳の天秤なのだ 天秤が美しい作品は美しいのだ

 

誰にも彼にも見放された一生で、童磨様の気まぐれな憐憫でしか救われ得なかった孤児の兄妹を読み返すことにする

 

万世極楽教徒でした

 

 

 

前に進めたルルーシュと、どこにも行けないスザクへ 【復活のルルーシュ感想】

 

 


復活に対して思ったことは主に3つ。


1.ジルクスタンの思惑を中心に据えた二時間程度の映画として、「ノリと音楽性で進む戦闘に、少ない描写ですぐに魅力的とわかるキャラ達をどんどん絡めていく劇」っていう、私が好きなギアスだったじゃんという純粋な楽しさが、ひとつめ。

飛翔するランスロットに絶叫するあいつらこいつら。テンポも良くて起承転結も軸もしっかりしていて、面白い映画だったと思う。ジルクスタンの新キャラもみんな好きで、あの人工的な超平和の中に取り残されてしまった、飢えと乾きの戦いの国というコンセプトもすごく良かった。


2.ふたつめは、忸怩たる思いを抱いてきたルルーシュの復活の顛末への静かな納得と祝福。


3.スザクに与えられてほしかった救いが、遂になかったことへの哀しさ。


この3つはかなり異なる感情だから、感想も評価もかなり書きづらかった。


復活、好きですか嫌いですかって聞かれたら好きでしたと答える。面白かったかつまんなかったかと聞かれたら、面白かった。でも、「私の中で、ギアスって作品は、いま終わったかもな」っていう、見限りっていうと言葉が悪すぎるけど、卒業というには冷えすぎてる気持ちが私の復活に対する所感。


復活は色々なキャラをちゃんとちょこちょこ出してくれて、細かく好きだったところはたくさんあるけど、割愛して、前の記事と対応するような形で、ルルーシュが何を得られて、スザクが何を得られなかったかについて主眼にとりあえず書いた。

 

 

制作に怒ったり批判するために娯楽作品を観ようと思うことは誰もしないし、したくない。復活のルルーシュを観に行ったのは九割九分は見届けなきゃっていう義務感だったけど、行くからには楽しもうと思って一年くらいかけて心の準備をした。

復活が決まった以上、所与の条件として考えねばと思っていたこと【=つまり、それが与えられた時に驚かない、不公平と嘆かないと決めていたこと】は、

「①ルルーシュが復活すること」、

「②それを周りは受け入れて、祝福すらするだろう」

ということだった。

また君たちに助けられた、も、君がいない世界は思ったより孤独云々も、スザクとナナリーの救出のはずがいつの間にか目的を変えてる一行も、次々とルルーシュに謝罪する人物たちも、ルルーシュの為に弁解するC.C.も、ルルーシュがありたいようにあるため、彼を押し上げてくれる。

愛されて赦されて応援される主人公像を所与の条件と考えること。これが私が、そうしないととてもじゃないけど耐えられないと思って、自分にかけていた保険だった。

 


「意図せず生きてしまったルルーシュがC.C.との約束を果たすためだけに世界の片隅で生きる」というのは、予想していた色んな可能性の中で個人的に最も望んでいたシナリオだった。こういうと烏滸がましいけど、一番許せると思っていたシナリオ……なぜならC.C.は公正なジャッジたるべきキャラでも聖人でもなく、ただルルーシュの傍らにいる共犯者で、これからいくらでも心情に容易に変化が訪れ得るキャラクターだからだ。

そもそも、R2終了時の牛車の男がルルーシュなのではないかという生存説も、ルルーシュファンの拠り所にと物語が残した救済として、私は目くじらを立てていなかった。それが公式として一本化するのはまた全く別の話だからこんな複雑な気持ちだったわけだけど、C.C.の予想外に厚い献身と執着と情、何もできない抜け殻のルルーシュの描写は、私を更に肯定的にさせた。C.C.が自分の幸せのために「私は我儘な女なんだ」と言って頑張るなら、その我儘の先を喜んで見送ろう。C.C.があんな風に笑うならば。

メタ的なことを言えば、爆発的人気のあったC.C.を、この賛否両論な復活の『口実』にするのは非常に戦略的だと思った。


復活した直後から怒涛のように畳み掛けてくるルルーシュ劇場は、「ルルーシュは利に聡く自己中心的で、また身内と敵では用いる道徳に雲泥の差があり、自分で選択することができ、周りをそれに従わせる人物である」という私の解釈に合うような台詞や描写のオンパレードで、「今までの公式の美化イベントは一体なんだったのだ!!全てを燃やし尽くすのに、情も捨てきれないただの男のままじゃん、よかった!」と思わずにはいられなかった。ルルーシュは自分勝手で自己中心的で、だからこそ願望を叶える力があって、主人公足り得るんだ!!っていう、私なりのルルーシュというキャラに対する納得が、ここにきてちゃんと肯定されたように思った。


私が問うていたルルーシュの覚悟に関しては、「ルルーシュは死ぬつもりだった」、と、何も言わない彼に代わって彼女がさっと言ってあげただけで、更にCの世界のカラクリについては深掘りするわけでもない。落とし所としては些かあっけなさすぎた。

兎にも角にも「復活は所与の条件」であり、その顛末に関してどうこう突っ込んでもしょうがない作品であって、「復活して、どうするのか」であったのだなと感じた。

彼の落とし前は「世界と関わらないこと」であり、それはC.C.と二人でひっそりと世界の片隅で役割を果たしながら生きていくこと...を意味した。

正直、ゼロの役割を代わらないことに関してはいまだに全く納得できていない。ゼロをやることは象徴という枷の中で世界の奴隷となることで、特権ではない。あんな綺麗な建前ではなくて、ルルーシュというのは存外にロマンの男で、妹を守るというロマンチズムの後には、約束を守るというロマンチズムを選んだという印象だ。

それは、勿論、ルルーシュとC.C.の物語として映画が成り立っているときに、非常に綺麗に感動的にまとまっていると思った。

他の人の選択との整合性や、今までとの齟齬を問いただし始めると途端に泥沼だ。

そういう作品として観ない、ということなんだろう。思うところはたくさんあるし、喚きたいこともある。でもそういうものなんだなとするしかない。

 


私にとってコードギアスは結構複雑なシリーズで、それは、誰もが大好きなルルーシュという主人公を、多くの人と同じように解釈したり好きになったり応援したりするのがものすごく難しいからだ。だから、ファンダムでは肩身の狭い思いもするし、「作品を好きって言えるためには主人公を応援できないといけないだろうか?ルルーシュをどう考えたらいいんだろう」て思い続けてた10年間だった。でも、復活をみて、私の中のルルーシュに対するわだかまりは、一応のアンサーを得られた。私は彼のC.C.との今後の幸せを心から願えている。

「復活はルルーシュの世界へのケジメ」みたいな言葉があって、たぶん公式はそういう意味では使ってなかったんだけど、私としては、この復活という映画は大変ルルーシュへのケジメがつけられる作品だった。R2の、「色々やったけど、彼は死んだからもうぜんぶ水に流すしかない」という彼へのケジメの付け方は10年間試したけど、あまり健康的ではなかった。

でも「色々やった。決着を試みた。そして、これからは傍らの女の子との約束の旅を追求します。それを応援しよう」というケジメの付け方は、すごくすごく不思議だけど、むしろできる。

ルルーシュの「世界と関わらない」は、世界という大仰な言葉よりも、今までの人間関係を後ろに捨て置くような意味合いであれば私は嬉しい。

もうあなたは死という形ですら、みんなの心を縛ることはない。どこかでC.C.との人生を歩んでいることを、時々みんなは思い出すんだろう。でもそれだけだ。みんなが負い目を感じることもない。それに安心する。そしてあなたは前に進めた。だから幸せになってほしい。

物語から卒業したルルーシュに、新しい物語に進んでいったルルーシュに、さよなら、行ってらっしゃいという気持ち。

こう思えたことに結構我ながら驚いたし、復活が私にくれた一番の恩恵だと思う。

 

 

 

今回色々な解釈があると思うから、ルルーシュは今まで十分やったとか、これからも辛いとか、こんなのルルーシュじゃないとか、全く異なる思いで、悲しい人もいるんだと思う。

もし、ひとつ確かに、アニメ版シリーズから復活のせいでひっくり返してしまって、もう盆に返らない覆水があるとしたら、ゼロレクイエムの意味だ思っている。私にとっては、新作がなんと言おうと、ゼロレクイエムのルルーシュとスザクの償いとは、「誰よりも未来を欲しがったルルーシュは死に、誰よりも死にたかったスザクはこれからも仮面の下で生きる」というものだ。断じて、「ルルーシュが世界と関わらないことが償い」ではなかった。それはまた全く別の話だ。最初からルルーシュが牛車の男であればよかった訳がない。

ルルーシュは生きていく。未来が欲しかった人が生きていく。しかも、C.C.という理解者とともに、目的と意味のある旅路を。

 


でも、だからこそ、私には捨てきれない期待があった。

『スザクに救いがあるのではないか?』

スザクに関してこの公式や制作が与えてくれる幸せに期待しなくなって久しいし、どうせないかもしれない。でも、ルルーシュが生き返るというのはルルーシュにとって相当の「許し」なのだから、償いに生きるスザクに何かしらの変化が訪れることは違いないのではないか?

むしろ心配だったのはスザクと罪の意識という一期から続く彼の性格を、曖昧にハッピーにされるのではないかということだった。彼がそうした葛藤や今までの一貫性から発展するなら、きちんと物語で説得してほしい。でも、もししてくれるなら、こんなに嬉しいことはないのではないか?

 


けれどもそうはならなかった。スザクの物語はどこにも行かなかった。彼は囚われたまま進まなかった。そもそも、復活はあまりにもスザクの話ではなかった。

 


観劇前、私はスザクが幸せになれることだけをお祈りしようと思っていた。でも、観終わって思ったのは…もう彼は、幸せになんかなれないだろうということ。彼に、幸せになる気がないということ。他人が前に進むことばっかり笑って手伝って、自らの幸せには頓着がない。なのに、彼はまだ、裏切られたと思ったら怒るし、懸命に諦観を身につけ続けなければ擦り切れてしまうような、ただの人間のままだ。それが何より辛い。もし彼が、全くの聖人になってしまっていて、何をされようと気にしないなら、寂しいけど、こんなにも心は痛まないかもしれない。でも彼はそうじゃない。なけなしの枢木スザクという個を仮面の下に持っていて、傷つくたびに世界への期待値を下げて、自分はそのくらいの存在だと、次の瞬間には切り替えてる。その連続が辛い。

 

 

 

「スザクが強すぎて安心した ひとりでもやってけそう」というような感想を見かけて、あまりのリアルさにもはやグロテスクですらあった。死にそうなのに、弱さを見せるのは悪だと思ってるから、必死に感情を隠していたら、周りから見たら誰よりも「あいつは気にしない奴だから」になっていること。

 


上官に撃たれても恨み言ひとつないまま、穴の空いた体でランスロットに乗って、人の命を救えることを喜んでいた一期の頃。

戦闘用ですらないナイトメアで迎撃にでるスザクや、拷問上がりの状態で僕を使ってくれと有無を言わせず戦場に出るスザクは、完全に一期のそれと重なった。

自分の心身の健康を完全に度外視して、他人の他人の大切なもののために命を削るスザクは、これまでの全てを経て、どこからどこに進めたんだろう。

 


自分で何かを選ぶたびに失ってきた人生で、自分の倫理も意思も自分のことも好きになれずに、ブリタニアの正義を是として生きることにした。その次に与えられた倫理のコンパスがゼロレクイエムだっただけなのではないかという懸念。道徳の指針を外注し巨大な正義に支えられていなければ生きていけない。彼の守る明日に彼は入っていなくて、生きることに希望を抱いていない。世界は彼に選ぶ事を許さず、彼も自分の選択を信じられない。我ながら悲観的すぎると思っていたこの考えは、皮肉にも肯定されたような気がした。彼は、結局父殺しのあの日から全く変わっちゃいない。

もしかしたら、あの頃はまだ、彼は「死にたい」という、自分から出た願いを持つ事を許されていたんじゃないかとすら思う。彼が明日を生きるのは、その「死にたい」すらお前の我儘だよと世界から否定された結果でしかないような。私はそんな悲劇的なスザクの顛末を、「生きたいと思えるようになった」だなんて絶対に表現したくない。

 


さすがにスザクかわいそう、という感想が多くなるであろうことは観劇後にも感じていて、それに愚かにも安心すら覚えてしまうくらいには、スザクはずっと正当に扱われてこなかった。ずっと彼はひとり極端にかわいそうだった。彼が孤独でなかったのはほんの一瞬の話で、孤独の傷が癒える前、可能性の段階で無慈悲に終わってしまったのだし、物語の中でも外でも彼に対する異常なくらいの風当たりの強さのトラウマは、いつまでたっても癒えない。

 


スザクに、拘泥させておいて与えず、奪っておいて気にしてないことにさせるひとを何人も見てきた。そうやってスザクを誰かへの愛を示すために使い倒してきた。

今回も、「君がいないと孤独」と言わせた上でルルーシュを去らせ、「ルルーシュの方がゼロにふさわしい」と言わせた上で、同じように思っている人に囲まれながら、ゼロをやらせ続ける。あまりにも酷じゃないのか。

 


それでも明日が欲しい、というスザクの台詞にはずっと違和感があった。その明日に彼が何を求めているのかわからなかった。

でも、何も求めてないんだ。ただ明日を保全する装置になれればいいと思っている。生きろというギアスは願いではなく呪いのまま、人並みの幸せなど捨ててもらうというあの呪いの言葉を一部も違えることなく。

それでもなお、これは『ルルーシュのつくった』平和だと、自分の犠牲を勘定にすら入れず。冒頭のセリフは、「友達が命すら落としたのだから」と自分に言い聞かせて、自分に鞭打つ理由を探し続けているようだった。


それでも、彼が、怪我した猫を拾ってあげるスザクのままであることが、私は悲しくて仕方なかった。亡くしたユフィの思い出の中に生きていくのがスザクだと、あのEDの絵に叩きつけられたような気がした。あなたも他のみんなみたいに明日に生きればいいのに。新しい関係性を探して、悲しみを抱えながらも笑顔で生きてくれればいいのに。誰も責められないのに。

でもそうじゃない。スザクに与えられたのは、仮面の下で、薄暗い蝋燭の光の中で、猫二匹と、ぽつんと独りきり。誰かといる ということが、せめてもの少しの救いになるであろうときに、ひとりだけ誰とも一緒にいない。


予想していたナナリーとの絡みもあまりにもなく、ただひたすらに孤高。

ルルーシュとの会話も思ったよりさっぱりしていて、見送りの言葉もなく、締めくくりのシーンもない。立ち位置としては戦闘の花形、カレンのそれに限りなく近付いていたと思う。


あんな人生なのに、迷い猫一匹見捨てられない。あんな人生なのに、扇さんの結婚式の事を思い出すだけで、自然にあの頃の優しい声で嬉しそうに話す。「君が生きていて良かった」と言って親友の次なる生を祝福する。人の幸せのために自分の全てを投げ打つ。感情も表情さえも。アンパンマンみたい。

スザクに、「君が生きていてよかった」以外のなにが言えただろう?命を落とすかもわからない拷問の後朦朧とした中で、淡々と目も合わせずに作戦の説明をするルルーシュを、衝動で殴るまでが精一杯で、優しい彼に、友達思いの彼に、それ以上の恨みの言葉の一つでも吐けるものか。怒ってなんかいないよ、生きててくれていいんだよ。この言葉は、スザクが、スザクこそが何回だってかけられたかった言葉なのに。

それを彼が納得してるなんていう風な免罪符にすることなんてできるわけがない。


だからもう、いつか幸せになれますように、なんて思えない。いつか救われますようになんて思えない。スザクへの哀しい気持ちはついぞ何か別のものに昇華されることはなかった。物語はそれを与えなかった。

だから私が抱くのはスザクと同じ諦観だ。

 


登場人物たちに対して、私は好きだったけど死んでしまったあの人やあの人を折々に思い出してとか、言及してとか、悲しくなってとか怒ってとか、そう思うのは勝手なわがままだった。死んでしまったひとたちがただの綺麗な思い出になって、生きている人への気遣いが優先されていくのは妙にリアルだった。因果応報は求めないし、キャラに聖人であってくれなどとは思わない。けれども義を謳う以上、何かしらの作品内の倫理の天秤があるのだろうと、勝手にそんな綺麗な整合性を期待するのも勝手だった。

だってみんないま幸せだから。みんないま幸せで、平和だから、なんでわざわざ過去に拘泥することがある?故人のために怒ることがある?ごめんね、ありがとうルルーシュ、と生き返った彼に今がチャンスとばかりに次々にそう言ってケジメをつけて、どんどん過去を後ろに追いやって、前に進むほうがよっぽどみんなの、生き残った人たちの効用が高まるんだ。


人は見たいものを見るし、私もその例外ではないと思う。でも、私は枢木スザクの苦しむところが好きなのでは断じてない。幸せを手に入れられない彼を好きになったのではない。彼が好きだから幸せを手に入れて欲しかった。

スザクは幸せになるのがものすごく難しい人だけど、それでも全身全霊で救おうとしてくれた人に応えられる子だった。とことん自罰的で、贖罪に死を選ぶ彼だから勿論好きになった。でも、そんな「どん詰まりの彼でも」、「救われ得る物語」にこそ私は心を動かされた。彼のような人間だからこそ、ハッピーエンドがあって欲しかった。私はこの悲しさがいつか成仏して欲しかった。

私はスザクとユフィの物語に胸を打たれた人間だけど、それでも、それでも彼にナナリーとの明日があってもほしいと。彼の誠実なところが何より好きだけど、少し自分に甘くなったっていいんじゃないかと。そう思っていた。

ルルーシュブリタニアを壊すと言う夢を叶えたように、C.C.と共に歩めるようになったように、ナナリーという最も大切な人を生き残らせたように、スザクにも何かを与えて欲しかった。

でもそれを観ることはできなかった。


それが結論。

10年越しの決着、ありがとう。


私が欲しかったものは遂に得られなかったけど、いい区切りになったと思います。


スザクがどこにも行けないように、たぶん私のこのやるせなさもどこにも行けない。

ルルーシュを見送ったようにはスザクを見送れない。彼はあのままで、そしていつか死ぬんだろう。それがせめて苦しみの少ないものでありますように。

 

 

 

 

呪いの子感想①:前7作の懐疑への答え

 

 

Twitterでスコーピウスが可愛い!って話を読んで、勢いで呪いの子読んだ

 

※邦訳はまだ読んでないので日本語の台詞はわかってないでネタバレしてます

※always,今回はどう訳されたのか若干気になっている!!!

 

 

呪いの子、scobusに湧いている層を置いてみるとネット界隈では「なかったことにしたい」との意見が結構あるみたいですね?!

私はかわいいのと、まさか〜とびっくりなのとでもう只管感謝してましたが🙏🙏🙏

ハリーがお父さんやっていて直様泣いた

 

確かに作者による同人活動、というのは言い得て妙..(いいか悪いかは置いといて)
結構的を射ている………確かに同人であるよね?!みたいなシーンの連続…

キャラクターの台詞を取っても、前7部作より大袈裟に思えて、過剰だったり。

デレるドラコ、キレるハリー、ロンハーの夫婦漫才なんかに対しては結構そう感じました。

行動にある付加価値が執拗に粘着されていて、他の解釈を排除している感じもした。
彼はどう行動するんだろう?あ、そうするのか!とあらたな性格を発見しながら読む作品というより、彼にはこう行動して欲しかったんだよな〜、あれ?してる……みたいな、性格の確認というか…。大人を描くってそういうことなのかもね。

演劇の為に描くっていうのも、「大げさ」の理由なのですかね。演技も脚本も、演劇って鮮やかな演出をする傾向があると聞くし。

 

しかし、私は大きな成功があったと思った。JKRが、7部作で取りこぼした弱点を強烈に補おうとしていた。
私は、JKRが特定のテーマを据えて、それに積極的に応えようとしたからこそ—原作より遥かに短い限られた尺に、明確にテーマを持たせたために—物語としての繊細さや質であったり、前作との微妙な整合は犠牲になっても良かったのかなと思いました。
 

 

Q.前7作への懐疑

 

子供心にはただ冒険譚としか感じていなかった作品も、大人になればその社会性に気付く。

JKRはTwitterを始め他のメディアにも露出が多く、物語を社会問題への問いかけに用いることに躊躇がないし、その類の作品の中では仕掛けやアプローチがかなり周到かつ大胆だ。

ハーマイオニーは黒人になり得る、ダンブルドアはゲイだった、階級社会の否定………ハリーポッターとJKRがその表現をもって挑み、時によって大きく貢献した社会運動は多い。

 だからこそ作品にはより高次元の、要求の高い批判が寄せられることも多い。

(呪いの子に対して、「スコーピウスとアルバスをゲイにするべきだった」と主張しているのは何も西洋腐女子だけではない。ゲイ本人も、最終章は所詮JKのheteronormativityだと批判している。—というような。)

その中でも、私が今まである程度強く納得した批判が4つあって、

1.どんな正当で大きな理由があろうとも、子供を虐待環境へ放ってはならないこと

2.スリザリンに対する扱いは逆差別か、又は彼らの排他的性格を助長していること

3.ロンハリハーの黄金トリオの結婚相手は、JKRのエゴだということ

4.反則チートの存在:e.g.タイムターナー/予言

 

この4つが、大きく作品のテーマとして扱われていた。

 4つめは社会性とか関係ないけど。長いけど読んでください。

簡単に言えば、人物または物が、物語の奴隷となっていたところを解放しようとしていたという感じかもしれない。

 

 

1.虐待

子供向け作品の主人公は得てして不幸だ。寺山修司…"勝負の世界で、何よりも大きな武器は不幸だ"…(『書を捨てよ、まちに出よう』)。

しかしメタ的視点で考えてハリーを主人公たらしめる為に必要な不幸だったとしても、謙虚な人格に育てたかったというダンブルドアの言説を取ったとしても、「虐待環境へ幼児を置き去り、更にそのまま全くコンタクトを取らない」というのは、正当化できない不正義だ。

ダンブルドアはやはり聖人ではない、という議論を展開したいわけではない。

虐待が、【前作では解決を迎えたとは思えず、かつ十分に問題視すらされていなかった】ことを指摘したいのだ。

「虐待はハリーにとって成長過程で既に乗り越えられた壁だったので触れなかった」という解答も、アリだったとは思う。ハリーにとってホグワーツが家になった。無二の親友や親代りも沢山いる。他の問題に比べたら瑣末になった。

 

しかし呪いの子で更に追加された虐待エピソードの意図を考えれば、JKRはそのようにしてこの問いから逃げようとはしていない。

むしろ、虐待の描写は痛々しさを増したし、前作終盤で若干株を上げたペチュニアは再び大きく株を下げた。

さらに新しく、育児に際して、親がいなかった事、育て親に虐げられた事はハリーにとって大きな関門になったことも描かれた。

ここから、JKRは呪いの子によって、【虐待は疑いようがなく深刻だった。その通りに認める。ハリーはどのようにそれを乗り越えるか?】を意図的に示したと考える。

ダンブルドア-ハリーの擬似親子が抱えた問題に再び焦点を当てる形でこの問題が浮かんできたのも良かった。Thank Dumbledore, By Dumbledoreの言い回しに表れる様に、マーリン同様の神扱いなダンブルドアだが、読者がもつ懐疑は正当だという、JKRからの回答のように思った。 

(死の秘宝で駆け足にダンブルドアへの懐疑が描かれたものの、終わり良ければすべて良し感で流されてしまったように思っていた。今回、終わりよければもなにも、ハリーへのダンブルドアの無責任—または過度な介入—の顛末はまだ終わっていない、という事が確認できた。)

ハリーは作中で、「反面教師にする親も、お手本にする親もいなかった」旨の発言をしている。

どの親も多かれ少なかれ問題を抱えているだろうが、ドラコは反面教師にするルシウスがいて、ジニーやロン(そして恐らくハーマイオニーも)にはお手本にする親がいた。

平行世界の時間軸のハリーが子供に対して父権をひけらかし、従えようとしたのは、バーノンダーズリーを無意識の手本にするしかなかったからかもしれない。

家族に欠けていたダンブルドアは、ハリーの模範となることはできなかった。

では、誰が?

特にドラコとの会話、ジニーとの会話で顕著なように、周りの友人が親として振舞っているところをみながらハリーは、虐待から生じた傷を乗り越えていくのだろう。

 

 

2.スリザリン

正直言って、読む前にアルバスがスリザリンというネタバレを偶然見たのは残念だった。

言うまでもなく今作の一番わかりやすい特徴だ。主人公がスリザリン。

 

POTTERMOREで知ったけれど、マーリンはスリザリンだ。スラグホーンのように、好かれるスリザリンもいるし、スネイプやレギュラスの庇護/忠誠心はスリザリンの特徴かもしれない。しかし作中描写は兎角酷い。
ネタであれ、本気であれ、ダンブルドアやマクゴナガルのスリザリンの扱いも相当だ。

 

ダンブルドアをゲイにしたり、キングズリーが黒人魔法省大臣になったり、ハーマイオニーが女性魔法省大臣になったり、ハリーの初恋はアジア人だったり、JKRの多様性重視、物語内の理想的社会の構築は顕著だ。言うまでもない。

よって、アルバスというスリザリン主人公を描くというのは、殊更驚愕ではない。

いかにポッター家からスリザリンが出るのがありえなさそうでも、JKRはそういう他の目的を勘定に入れていそうだし。

 

グリフィンドールの問題点は、不死鳥から顕著に表されていたと思うが、スリザリンの「内輪に贔屓目で優しい」という美点(?)は、今作によって、生死関わる劇的なレベルでなく、普通に、可愛らしく描かれたと思って、凄く満足した。

 

3.黄金トリオ

JKR自身で「ハーマイオニーとロンは一緒にするべきじゃなかったかも」と発言するくらいだったから、この二人の関係性の懐疑は読者からだけでなくJKR本人からもうまれていたのだろう。

今回ロンハーが時間軸によって別れていたり、別れていてもくっつきそうになったりくっついたりするのは、

①二人は微妙な均衡で結ばれた仲だった

②それでも、二人でいるのが最適解だし、一番自然だよね

というJKRの思考実験の様だった。

 

ハリーとジニーについては、「身寄りのないハリーを、本当のウィーズリーファミリーメンバーにする」という作者のプロット/エゴの一部だ、という考察に私もある程度同意している。またジェームズとリリーを見た目的に踏襲したかったこともあるかもしれない。

ロンとハーマイオニーの方が、というかもっといえばロンとラベンダーとか、ハーマイオニーとマクラーゲンとかの方が、恋愛としては納得のいく顛末だった。

よく言われるのは、ジニーの人格描写、ジニーへの心理描写が少ないという事だ。ジニーがいい奴、感じのいい子だということはわかるが、それだけ。そんな中で、秘密の部屋の最後で一緒に遊んでくれた事をジニーが振り返った事は素敵だった。短いのに何より説得力があった—死の秘宝の別れ話における告白よりも。

 

どの時間軸に行ってもハリーとハーマイオニーが結婚することはなかった(ハリーが死んでいる場合もあったわけだが…)。

ハーマイオニーが独身で、学生時代からロンと恋愛沙汰にならなかったにも関わらずハリーがジニーと結婚している事から考えても、作者はその可能性まで提示しようとは思わなかった様だ。

※そうするとアルバスが消えたりと、プロット上都合が悪い事も否めない

 

前作では言ってもみんなティーンエイジャーだったわけで、あの頃の人間関係のままエピローグに突入したため若干駆け足だったし、死の秘宝で逆に「やっぱりハーマイオニーにはハリーの方が良いのでは…………」との思いを強くした人も多かったと思う。(私もそう)

しかし呪いの子を見るに、ハリーとハーマイオニーはやはり無二の親友だと感じた。尊敬しあって、守りあって、からかいあう兄弟姉妹のような関係性がよく似合う。

スムーズに合いすぎている、にすぎているのかもしれない。また違うところ(行動的なところと、書類仕事が好きなところ等)があっても、それが恋愛の魅力には繋がらない。

JKRは男女の友情を信じている。ハリーとハーマイオニーをくっつけないのは、JKRのエゴだったのかもしれない。夫婦よりも親しい異性の友人はあり得る(ジニーが嫉妬している様に)、という、これもまたJKRの理想の表現だった。

そして私は殊更これを非難したいと思わない。

 

 

4.タイムターナーと予言

タイムターナーも予言もチートである。

簡単にplot twist…または魔法界の非論理性への正当なツッコミを増やしてしまう。「何故ヴォルデモートを銃で殺さないのか」より厄介な二つの道具だった。

タイムターナーを不死鳥で全壊させたのはそういう理由もあった筈だ。

ならば何故今回タイムターナーや予言を主軸に置いた物語にしたのだろう?

 

タイムターナーの概念自体が、JKRが呪いの子を書く姿勢を象徴しているとは言えないだろうか?

もしこうしたらどうなっていた?

もっと多くの人を救えたはずだったのだろうか?

しばしば我々が後悔するように、「もっとうまくやれた」はあり得るのだろうか。

物語を書くというメタ的行為に関してもそうだし、ハリーという登場人物の行いに関しても言える。

ハリーがセドリックについて悩んでいるように、自分に捧げられた多くの犠牲について悩んでいるように、「いまある世界線はベストか」は万国共通の悩みだ。シリウスを殺した時キッチンに駆け込んだJKRもまた、ある種の罪悪感を抱えていたかもしれない。

可能性を行き来し、試した結果呪いの子の結論は、【今の世界に戻し、より良い未来を目指す】こと。ハリーポッターサーガへのJKRの姿勢そのものだろう。こうなってしまった物語はもう変えられない。そしてこれからはその先を考えよう。

 

予言については、前7作でダンブルドア-ハリーの問答で半ば解決を見ていた。大切なのは予言をどう扱うか、自分の意志でそれを受け入れるのか、どういう選択をするのか?

しかし尚、哲学的に終始した嫌いはあって、「選択が重要なのはわかるが、ならば予言の必要性とは」「予言は絶対なのか」という疑問からは逃げていた様に思う。

予言を上回ることができることが明示されたのは、【こうなることが予想されるであろう現実はある。しかしそれに逆らうことには意義があり、結果も伴える】ということだろう。

 

結局のところ予言がヴォルデモートを殺したのではなく、ハリーポッターがそうしたのだ。

 

ところで、なんでスターウォーズといいハリーポッターといい、予言の子っていう概念は現代も西洋フィクションで人気なのでしょうね。

イエスキリストその人から始まって、様式美なんでしょうか。

関係ないけど、ナルニア界のサンタとか、ハリーポッター界のクリスマスとかってなかなか面白いよね。ホリデーはあるんだ、みたいなね。ナルニア界はまんまキリスト教パロディですけど、それでもアスランですからね。

 

もっと関係ないけどハリーポッターには宗教が全くないのは本当に面白い。そういう論文ありそう。誰か教えてください。

 

 

 

 

感想②では、アルバススコーピウスの、可愛さとか、ヴォルデモート、マジ?みたいな、普通の話を、短く書きたい(*_*)

 

スザクに救いはあるのか、ルルーシュに覚悟はあったのか:新作ギアスへの疑問と願い

コードギアス10周年、並びに同登場人物たちによる総集編、続編の決定おめでとうございます。

あの最終回をびっくりしながら板の間で一人観ていたのが8年も前の事とは。もう社会人だよ。凄いよ。人生の節目節目にこの作品と向き合ってきたので、感慨深いものを感じます。

この作品は私の人生の中で最も愛しているものの一つであり、登場人物たちへの愛着や敬愛は10周年経った今も全く衰えていません。(それどころか、最早ずっと一緒に育ってきた価値観のようなもの、私が大事な瞬間に使う物差し、そして思い出そのものといった側面は、日に日に強くなっているように思います。)これほど好きになるに値する作品です。だからこそ、何度も考察し、批判してきました。

 

ルルーシュの復活、というサブタイトルと、「ゼロレクイエム後における、ルルーシュ彼自身の物語である」という説明。

これを聞いた/読んだ時の私の瞬間の反応は、「は?」でした。ありえない、台無しだ、私が一番起こってほしくない事が起こってしまった……

 

「インターネットでは賛否両論」

頷ける話です。

二つ理由が挙げられます。

1.コードギアスはあの終わり方で、数ある作品の中で記憶に残る一大作品になったといっても過言ではない。あの終わり方—つまり主人公ルルーシュがスザクに殺されるという結末は、それだけ衝撃的であり、新鮮で、感動的でした。(実際にそれが起こるまでは、「もう死ぬくらいしか幕の引きようがないだろうに」と考えていたにもかかわらずです)。

ライトファン層等を含んで、最も直感的で、最も多くの人が持った困惑は、【死の取り下げは、あの感動を台無しにする】という懸念でしょう。

 

2.それでも、ルルーシュのその後はファンに投げられていた。老若男女に稀に見る人気を誇った主人公だったという理由も勿論ありましょうが、「ルルーシュの死は物語上決定的な意味を持つ」事を視聴者が共有したと同時に、それでも視聴者がルルーシュが生きていほしいと思えばそう思っても良い隙間が用意されていました。

彼の死が悲しくて立ち直れない人々や、あらゆる世界軸を想像したい人たちへの抜け穴。否定もでき肯定もできる。

【特に歓迎されてきた、私達の自ずから解釈、翻訳できる余地が奪われた】というのが2つ目の理由です。

 

しかしながらこの8年間解釈が様々になされてきて、もう公式から統一してもいいよね笑というのはその通りでございます。わかります。

その上で上の二つをさておき、私が一番感じたのは

 

Q.なんでルルーシュが生き返っていいんだ?

 

という疑問です。

 

二つ、恐らく宗教戦争ばりに議論の余地のある前提がこの疑問の基である事は理解しています。(この前提は私が原作描写から論理的に導き得た解釈でしかなく、勿論頻繁に否定されることは認識しています)

①ユフィ殺害は、誰にも止められなかった不幸な事故ではなく、スザクの怒りはある程度妥当。

ルルーシュの死は独善的であり、より望ましい方法はあったはず。

 

いろいろ考えた結果

A.コード継承は一度死んでからでしかわからなかった。

というのが最も妥当な妥協点な気がしますが、じゃあなんでゼロの役目スザクに丸投げ?!と思いますし、単にお茶を濁されただけ感は拭えません。「生き返るかもしれない」とルルーシュが期待していた可能性すらもう台無しです。

(ていうか、ナナリーがうわー!って泣いてる時に「あれ?俺生きてるわ…」ってどういう絵面なんだろう笑笑 それから先の死んだふりとか埋葬とか考えると結構面白い。)

 

それはさておき。

スザクが受けた絶望に対して、彼のありえたかも知れない人並みの幸せや未来に対して、彼のその後の悲しい変化に対して、ルルーシュの死という「償い」はこれらにとりどれ程の埋合せだったのでしょうか。

スザクの最愛の人を死に追いやりながら、故に死を望む彼に自らの最愛の妹を託し自分として生き延びさせ、そして自分は復活?ルルーシュは、死んだからこそ私の中で折り合いがつき、多くのファンから熱狂的に愛されることも理解でき、彼という人柄と選択を肯定的に受け入れていたが、これで復活してしまっては…………巫山戯るなとしか言いようが無い。

勿論彼の責任の帰着するところはスザクに関してだけではありませんが、主眼ではないのでこの記事では触れません。

 

あの最終回、私はルルーシュの死に泣いたし、スザクの生に泣いた。

ルルーシュの死が、彼が奪った命を愛する者にとってすら悲しみたり得たのは、3つ理由があります。

 

1.彼の生に対する執着を知っていて、それを終わらせる決意をした覚悟に感動した。

殺戮に手を出してまで明日を求めたルルーシュが、罰として死を選ぶことの意義は言うまでもない。

 

2.彼も後悔があり、懺悔がある優しい人間であることが受け止められた。

彼がユフィの殺害を後悔しているのは真実だった。彼は自分の起こした奇跡という利益と、悲劇という不利益を天秤にかけて尚、彼自身として悲劇を重くとり、責任をとる事にしたのだと解釈した。「あれは過去だ」と一度口にしたあの言葉を、行動によって償いたいのだと。

そう感じた時、彼の死はただ悲しむべき死であった。復讐めいた爽快感は微塵もなかった。

[そう思う時、「私が彼にどうしてもユフィの事を口にして、謝ってほしいのは、勿論私がユフィが好きだったからだが、また同時に、彼がそうするのを見て、彼を許したいからだ」という事に気付く。彼を許して心から好きでいたいわけである。何も、主人公を見て、四六時中忸怩たる思いをもつのは私の趣味ではない。]

だからこそ、「なんでじゃああんなことをしてしまったのか、こんなことになってしまったのか」と一層やるせなく、最早どうしようもなくなってしまった状況への悔し涙ですらあったのかもしれない。

 

3.最期には美しい死を望む以上には打算的ではなかったと安心した。

あの場面に、穿った疑惑の入り込む余地は、正直なかった。確かに、ルルーシュは、最愛の妹の側で、劇場的に死にたかった。カレンなど、近しい人には理解されたかった。ナナリーの意志を無視したルルーシュの死は独善的だった。それでも尚、「あぁ、やはり彼はとても人間的だった」と思う以上の打算はなかった—死を偽装したがっている、などという可能性は微塵も感じられなかった。

最期のスザクへの呪い、ナナリーへの祈りは、「それでも貴方は何か考えているに違いない」などと言う感動への障害物を悉く失くす力があった。あの場面は本物だった。

 

この3つはもちろん、私があの時泣いた理由であが、恐らくスザクがあの時泣いた理由でもあるでしょう。

 

しかし、今、その大前提である、ルルーシュの覚悟とは、懺悔とは、一体どこにいってしまうのでしょうか?

彼の死は、生き返りを想定した茶番でしか無く、スザクの生は、その替え玉という陳腐な値札が追加されてしまった。

罰を受けたのは最初からスザクだけだったのか。

荷台に乗った時点でルルーシュは自由です。死ですらどのくらい苦しかったのかよくわからない。社会的死が、それまで彼の人に与えてきた死に比べて、一体どれくらい価値のある償いだろうか。

 

スザクに救いはあるのか??

ルルーシュに覚悟はあったのか??

 

この疑問が簡単に解決されないのは、【ルルーシュは救われる。スザクは救われない。】といういつも苦味しかなかった構図を最悪の形で再構築された様に思えるからです。

 

よくスザクに対する批判でなされるのは、「自殺願望があるなら勝手にやれ」「偽善的」の二つですが、そもそも一介の軍においてですら特出していたであろう彼の身体的才能を鑑みても、「死ぬ→社会への不利益」という方程式が成立していたとしてもおかしくはない。依って、「才能を活かしてから→死ぬ」が彼の折衷案だったのだ。また、「すでに幼少で間接的に殺してしまった分、人を助けたい」という救済願望、赦しを求める感情は、偽善ではない。そもそも、彼は一度も善ないし益を主張したことはない。彼のしたのは、「社会で定義されている善を受け入れ、それを実現すること」である。作品の構成上、常にルルーシュの善に彼が対抗してくる構図だったのは殊更否定しないが、彼の従う善は彼に益のある善ではなく、社会が彼にそう押し付けた善でしかない。

彼とルルーシュこ決定的な違いは階級であり、選択肢の幅であり、行動の緊急性・必要性だ。スザクの行動は常に比較的に、ある程度強制の、奴隷的なものであることをわかっておかなければならない。

スザクの人生は最初から最後まで結局不幸の方が圧倒的に多い。不自由なかったのは年少時代くらい、その時ですらスザクには元々兄弟も母親もこれといった友人もいない。また、あの頃の横暴で爛漫な性格と今の性格を比べると、いっそのことより一層痛々しさが増す。

物語が始まるまでのスザクの人生は、少なくとも妹と友人と物質的援助に恵まれたルルーシュのそれを激しく上回って酷い。

幼くして友人(しかも限りなく短期。私は昔読んだ【それまで親友のいなかった為か、またはその後過ごした辛い時期から思い返すことが多かった為か、誇大に美化された友人関係】というスザク-ルルーシュの関係性への指摘が忘れられない。)の為に父親を殺し、それにより自国がよりあっさりと侵略され、国民が死に、親戚からは勘当され、軍に入り、その過程で大事な人を失い、差別的待遇を受け続けている。トラウマから彼の人格は驚くほど他者中心、自傷的になる。

その彼を少しでも変えたのはユフィだったが、最悪の結末を迎えたために、彼の倫理は歪んだ。(与えられる善を実行すれば救済される→与えられる権力構造を利用すれば報復できる)

彼が守りたかった道徳を気にしなくなり、力に固執するようになったのはやるせない。その間ずっと生きろギアスが効いていたのも最悪に拍車をかける(勿論死んでほしくはない。でも彼にいつかですら何かしらの自由があったのか?という疑問は重い)。その後のいかなるスザクの行いの矛盾が指摘されようとも、ならばスザクはユフィの死の後如何様に救われ得たのか、それが不可能なら原因は誰、何だという事になる。フレイヤの発射もその一つだ。

 

最終回の辛いのは、これからの未来にスザクという人格が幸せになる要素が見受けられないからだ。Cの世界なるものがあることがわかったのに、ユフィの元に行けないこと。ユフィを殺したゼロという男に扮するということ。最早彼自身ではなく、憎んでいた劇場型の犯罪者・ゼロとして生きること。この生の幸せが無い(最早苦しみしか感じられない)中、最悪の場合、不死であると考察できたこと。

今回、スザクが不死になったのではなく、ルルーシュが不死になったパターンが明確になった点では最早救いだったかもしれない。スザクにあのまま生きろギアスが効いている範囲内で彼は不死に近いが、いつかは終わる罰だ。

 

もし私がスザクに救いや許しを求めるならば、それがルルーシュにも求められてきたのであり、だから生き返る、そして喜ばれるのは当然のことでしょう。

しかし、ルルーシュが商業的に贔屓され得るから救われて、スザクは不人気だから救われなくて、そんなのは本当に願い下げだし、本気で観ていて辛いのを製作者にはわかってほしい。亡国ですら毎回精神をやられていた。もし数年後の時間軸でやるなら、二人共が償いをできて、二人共が救われてほしい。

 

何にせよ、物語を実際に観るまでの批判も焦燥も無駄でしか無いことは十分わかっています笑

趣味という無駄な贅沢の内でも考察や予想は特

に無駄の権化なのですが、それでも10年間の鬱憤を晴らすためにやってしまいました。

この8年間は、スザク好きにとっては別に「いろいろ好きにでにた8年間」ではなかった。

だから多くのファンの方々がやっていらっしゃるように、「公式、そろそろ好きにしていいよ!」と送り出すことが難しい。

どんなファンダムに行っても、どんな交流をしても、どんな動画を見ても、考察を見ても、逃げようもなく誰かにスザクを非難されて批判されて否定されて、そして公式からもしばしば彼のユフィへの想いを踏みにじられるようなこともされて、あぁ!!!やりきれねぇ!!と常に思っていた8年でした。

ならば、私にとって公式に望むのはもうこの気持ちの埋葬です。もう成仏させてくれ、と思います。

彼を幸せにしてほしい。

 

 

お疲れ様でした。